消えてしまいたいという気持ちからの脱却
2008/04/04 CATEGORY/うつ・メンタル
鬱病にて一番の悲しみを誘う現象は、死んでしまいたくなること。
常に不安・絶望・焦燥が綯い交ぜに心に巣食い、『死』についての思いが頭から離れない。
消えてしまい自分・・・・・。
独り言で「あぁ、もぉ死にたい、死にたい・・・・・・」と呟きながら過ごす日々。
「誰しもそんな感情を抱くコトあるんじゃないか? その程度こと、しょっちゅうだ」と、おっしゃる人の気持ちもわかる。しかし、おっしゃる人側には、鬱の気持ちは理解できない。
尋常ではない『消えてしまいたい感情』・『死』についてへの思いは、鬱にしか理解できないだろう。
どぉやって死のう・・・・
誰にも迷惑をかけずに死ぬには・・・・・・
自分が死んだ後の家族の生活は・・・・・
子ども達は辛い風評の中、生きていかねばならないのか・・・・・・
没頭する仕事がない時間には、ずっと頭を巡らしてしまっている。
とてもノーマルな状態とは言えない。
不必要に心身を磨り減らし、ますます疲れ果てていく・・・・・・。
そして、
いまぁ〜 わたぁしのぉ〜 ねがぁいごとはぁ〜♪
と、自らのテーマソングに『翼をください』をチョイスし、一人車内で口ずさむよぉになる・・・・・。
元気な頃は意味不明であった『世を儚んで死を選ぶ』という抽象的な表現の感情・行動が、何だか自分の身にも当て嵌まるような気がしてきてしまう。
『世を儚む・・・というほどの社会全体への虚無感』ではなく、『自分自身が囚われてしまっている不安感・絶望感』ではあるのだけれど。
『死』に踏み切れないのは、勇気のあるなしの問題ではなく、私の場合は、遺された身内の心に傷を残し、辛い境遇を与えてしまうという悩みだけだった。
ならばと、事故死のチャンスと遭遇することを願う日々。
失踪騒ぎを起こし、そのまま、もはやこれまでと自分を追い詰め・・・・・・
捜索願いが出されて・・・・・・保護。
お巡りさんに勧められるがまま、心療内科へ・・・・・。
私の場合、それが病気であると診断されたは、『救い』であった。
(病気だったのかぁ・・・・・病気なら治療すれば、治るのか?
この気持ちを抱いたまま生きていくことから、抜け出せるのか・・・・・・)
病気であるから、治そうと思えるし、その治療を補完すべく、イロイロと試してみて、心と身体を鍛え直そぉという考え方に、時間はかかったが徐々に切り替わっていった。
これが、性格の問題・甘ったれた考え方・試練を越えれぬ意志力の弱さ・誰にでもある逆風に耐えれぬ精神力の弱さ、といったコトに括られてしまえば、さらなる自己嫌悪に陥り、もはや行く道を行くしかないと思い詰めてしまう。
ウツを病気と言えないと言う人がいる。
ウツの名の下に虚ろな感情のまま怠惰な日々を過ごすことに、自己嫌悪感に苛まれる。
将来の不安感の元凶が、自分自身の怠け癖に起因するならば、さらなる絶望感に襲われる。
「ストレスにより脳内伝達物質の欠乏する病気になってしまったことにより今の感情に包まれてしまっているだけで、治癒すれば気持ちが変わる」と理論づけて、自分が納得できれば不安感も和らぐ。
もっとも、脳内伝達物質の欠乏が鬱の原因なのであれば、「カウンセリング」とは、如何なる意味があるのか?
鬱に苦しむ人が発する情報を見渡すと、抗鬱薬剤は各人各様、それぞれの症状や体質、体調によって各種さまざまであるようだが、病気として治癒するには、それほど各種の薬物パターンがあるのも謎。
場当たり的な薬物による対症療法と、カウンセリングを組み合わせているだけで、根本的な治療方法が確立されていない様子にとれる。
すると、薬物依存による治療だけで解決はできないコトに気づく。
外に出て、社会に関わって、自分の居場所を見つけていかずして、薬物に依存しているだけでは、けっして治癒はしないように思える。
それは学校や職場に限らずとも、趣味・スポーツ・友人との会食、そんなコトからでいい。
医学的なコトは、よくわからない。
『気持ちのあり方』は他者の気持ちと『症状』として比べよぉがなく、重度・軽度の基準も理解できない。
「本当は、病気でないのかもしれない・・・・・」と思い始めてしまえば、「治療して改善する」という将来への希望まで摘み取られてしまう。
日々『死』への感情と向き合う恐るべき病気であるというコンセンサスが一般的に得られるよう願いもし、また、そのために自分が声を出せる範囲には伝えていきたい。
それが不安感や絶望感のまま生きる人間、その家族の不幸を減らすことに、きっとつながる。
『心の風邪』と言う言葉で表現する人もいる。
「誰しも罹るもので気に病むな」と言いたいのだろうか?
「安静にして投薬を受けていれば治るよ」と言うのだろうか?
いずれにしても、鬱の気持ちを己の感情として感じたことのない医者・学者、もしくは抗鬱剤の普及拡販を願った製薬会社の意向に叶った言葉。
「ウツは病気」とのコンセンサスが今以上に確立されれば、より多くの人が早期に『気持ちの在り様』を気軽に相談できるようになるだろう。
「誰しも感じる感情の一種」と言うコトなれば、誰しも気軽にメンタル相談に行けばよいだろう。
ギリギリの精神状態になるまで追い詰められてからでは、精神的復活を遂げるに、時間を費やす。
ただ、医療費の増大は患者家族の家計、国家財政を圧迫する問題であるので、診療報酬規定を改定し、患者負担割合の額面ではなく、根本的に診療費を低額に設定し、抗鬱剤も安価に提供するよう行政指導をしていかねばならない。
結局、経済的な生活不安を抱える患者を持って贅沢三昧の医者・暴利を貪る製薬業界こそ、ウツ患者を救いきれぬ元凶。
精神科・心療内科の診療内容や、薬剤に疑問、不安を憶える患者は数多い。
(私の通院する心療内科の先生もビーエムに乗っちゃてるが、人間的に悪い人でないので、ギリギリセーフ)
ついでに『心の風邪』という言葉を安易に発する者にも、心を許すな!
何か裏がある。
そして、今、『死』への感情へ囚われてしまっている人。
必ず消える!
一時的にでもあれ、消える時は来る。
テーマ : 鬱病 - ジャンル : 心と身体
常に不安・絶望・焦燥が綯い交ぜに心に巣食い、『死』についての思いが頭から離れない。
消えてしまい自分・・・・・。
独り言で「あぁ、もぉ死にたい、死にたい・・・・・・」と呟きながら過ごす日々。
「誰しもそんな感情を抱くコトあるんじゃないか? その程度こと、しょっちゅうだ」と、おっしゃる人の気持ちもわかる。しかし、おっしゃる人側には、鬱の気持ちは理解できない。
尋常ではない『消えてしまいたい感情』・『死』についてへの思いは、鬱にしか理解できないだろう。
どぉやって死のう・・・・
誰にも迷惑をかけずに死ぬには・・・・・・
自分が死んだ後の家族の生活は・・・・・
子ども達は辛い風評の中、生きていかねばならないのか・・・・・・
没頭する仕事がない時間には、ずっと頭を巡らしてしまっている。
とてもノーマルな状態とは言えない。
不必要に心身を磨り減らし、ますます疲れ果てていく・・・・・・。
そして、
いまぁ〜 わたぁしのぉ〜 ねがぁいごとはぁ〜♪
と、自らのテーマソングに『翼をください』をチョイスし、一人車内で口ずさむよぉになる・・・・・。
元気な頃は意味不明であった『世を儚んで死を選ぶ』という抽象的な表現の感情・行動が、何だか自分の身にも当て嵌まるような気がしてきてしまう。
『世を儚む・・・というほどの社会全体への虚無感』ではなく、『自分自身が囚われてしまっている不安感・絶望感』ではあるのだけれど。
『死』に踏み切れないのは、勇気のあるなしの問題ではなく、私の場合は、遺された身内の心に傷を残し、辛い境遇を与えてしまうという悩みだけだった。
ならばと、事故死のチャンスと遭遇することを願う日々。
失踪騒ぎを起こし、そのまま、もはやこれまでと自分を追い詰め・・・・・・
捜索願いが出されて・・・・・・保護。
お巡りさんに勧められるがまま、心療内科へ・・・・・。
私の場合、それが病気であると診断されたは、『救い』であった。
(病気だったのかぁ・・・・・病気なら治療すれば、治るのか?
この気持ちを抱いたまま生きていくことから、抜け出せるのか・・・・・・)
病気であるから、治そうと思えるし、その治療を補完すべく、イロイロと試してみて、心と身体を鍛え直そぉという考え方に、時間はかかったが徐々に切り替わっていった。
これが、性格の問題・甘ったれた考え方・試練を越えれぬ意志力の弱さ・誰にでもある逆風に耐えれぬ精神力の弱さ、といったコトに括られてしまえば、さらなる自己嫌悪に陥り、もはや行く道を行くしかないと思い詰めてしまう。
ウツを病気と言えないと言う人がいる。
ウツの名の下に虚ろな感情のまま怠惰な日々を過ごすことに、自己嫌悪感に苛まれる。
将来の不安感の元凶が、自分自身の怠け癖に起因するならば、さらなる絶望感に襲われる。
「ストレスにより脳内伝達物質の欠乏する病気になってしまったことにより今の感情に包まれてしまっているだけで、治癒すれば気持ちが変わる」と理論づけて、自分が納得できれば不安感も和らぐ。
もっとも、脳内伝達物質の欠乏が鬱の原因なのであれば、「カウンセリング」とは、如何なる意味があるのか?
鬱に苦しむ人が発する情報を見渡すと、抗鬱薬剤は各人各様、それぞれの症状や体質、体調によって各種さまざまであるようだが、病気として治癒するには、それほど各種の薬物パターンがあるのも謎。
場当たり的な薬物による対症療法と、カウンセリングを組み合わせているだけで、根本的な治療方法が確立されていない様子にとれる。
すると、薬物依存による治療だけで解決はできないコトに気づく。
外に出て、社会に関わって、自分の居場所を見つけていかずして、薬物に依存しているだけでは、けっして治癒はしないように思える。
それは学校や職場に限らずとも、趣味・スポーツ・友人との会食、そんなコトからでいい。
医学的なコトは、よくわからない。
『気持ちのあり方』は他者の気持ちと『症状』として比べよぉがなく、重度・軽度の基準も理解できない。
「本当は、病気でないのかもしれない・・・・・」と思い始めてしまえば、「治療して改善する」という将来への希望まで摘み取られてしまう。
日々『死』への感情と向き合う恐るべき病気であるというコンセンサスが一般的に得られるよう願いもし、また、そのために自分が声を出せる範囲には伝えていきたい。
それが不安感や絶望感のまま生きる人間、その家族の不幸を減らすことに、きっとつながる。
『心の風邪』と言う言葉で表現する人もいる。
「誰しも罹るもので気に病むな」と言いたいのだろうか?
「安静にして投薬を受けていれば治るよ」と言うのだろうか?
いずれにしても、鬱の気持ちを己の感情として感じたことのない医者・学者、もしくは抗鬱剤の普及拡販を願った製薬会社の意向に叶った言葉。
「ウツは病気」とのコンセンサスが今以上に確立されれば、より多くの人が早期に『気持ちの在り様』を気軽に相談できるようになるだろう。
「誰しも感じる感情の一種」と言うコトなれば、誰しも気軽にメンタル相談に行けばよいだろう。
ギリギリの精神状態になるまで追い詰められてからでは、精神的復活を遂げるに、時間を費やす。
ただ、医療費の増大は患者家族の家計、国家財政を圧迫する問題であるので、診療報酬規定を改定し、患者負担割合の額面ではなく、根本的に診療費を低額に設定し、抗鬱剤も安価に提供するよう行政指導をしていかねばならない。
結局、経済的な生活不安を抱える患者を持って贅沢三昧の医者・暴利を貪る製薬業界こそ、ウツ患者を救いきれぬ元凶。
精神科・心療内科の診療内容や、薬剤に疑問、不安を憶える患者は数多い。
(私の通院する心療内科の先生もビーエムに乗っちゃてるが、人間的に悪い人でないので、ギリギリセーフ)
ついでに『心の風邪』という言葉を安易に発する者にも、心を許すな!
何か裏がある。
そして、今、『死』への感情へ囚われてしまっている人。
必ず消える!
一時的にでもあれ、消える時は来る。
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共感するところが多くて、コメントさせていただいてます。
自分は、自殺を考えて、次に、事故死を考えて、結局、病院にいって、うつと判断されました。今でも、「死にたい」とつぶやくことも多いです。同じような方がいることが分かって、少々安心しました。
これからも、訪問させていただきます。宜しく御願いします。
速攻レスポンスにビックリしましたが、共感のお言葉、とても嬉しく思います。
ありがとうございます。
その他の雑文を読んでいただければ、丸わかりなのですが、私はコノ手のお話は本来のキャラではなく、どっちかって言うと、苦手の分野です。
ですから、ブログで上手く、鬱の気分をお伝えはできませんし、私を「あんまり鬱ではない」と思っておみえの方も多くいるよぉです。
間違いなく鬱なのですが、鬱を綴ると、自分自身の気持ちがさらに輪をかけオチるので、避けてしまってます。
今日はチョット時間があったので、イロイロ鬱系のブログさんを拝見していました。
すると、やはり『治療生活の不安』・『診療内容への不満』・『抗鬱剤の列記』といった記事が大変多くありました。
そして『死への願望』を綴った悲しい文章もありました。
私はその全てから脱却したわけでもなく、共通する感情を抱いています。
そして鬱で苦しむ皆さん同様、その不安感や絶望感から早く逃れたいと足掻いている毎日です。
私は昔から、理屈・理論で自分なりに納得できなければヤル気にならず、行動を起こさないため、自分自身の感情の在り様を、理論的に説明できない状態であることに困惑しています。
理論づけとまでは言えませんが、この鬱という病気の恐さと、そして医療の現状への疑問と、今現在の自分なりに整理している考え方を綴ってみました。
私のやや偏った意見ではありますが、もし、それで、何人かの方が、「疑問を抱いているのは自分だけではない」と感じていただき、そして何人かの方が、『死への願望』が消える日への将来を感じていただければ、なにより嬉しく思います。
私は、3月より徐々に職場に顔を出し始めており、cobooo殿より、若干早く、カムバックにチャレンジ中です。
まだまだ不安いっぱいで、今後どぉなるコトやらって状態ですので、大きなコトは申せませんが、cobooo殿の心の整理のヒントになれば幸いです。
さて、これからもご訪問いただけるとのありがたきお言葉ですが、このブログにては、ほんとに今回のよぉな文章は珍品であることをご承知くださいませ。
ほとんどが脱力感漲るスッコケの内容なんです。
ガックシさせるはずなので、先に断わっておかねばならんのです。
私も消えてしまいたいという感情に苛まれているサラリマンです。
もん吉さんのブログは、ウツを語りながらも不思議なほど陽気でオモシロく、
同じウツであっても、その人の持つ性格で、
これほど気持ちが違うものかと、感心して読ませていただておりました。
今回の記事は、もん吉さんとしては
お珍しい内容とのコメントも拝見いたしましたが、
見事にウツを解説された名文だと思い、
初めてコメントを送らせていただきました。
さすが論旨が明快で、私の精神面を考える参考となりました。
ありがとうございます。
今後とも、そのウツらしからぬ明晰な頭脳で、
暗い話の多いウツの世界に
光明をともしていってくれるを期待しています。
それがウツになって、本当に死に現実的に直面したとき躊躇してしまいました。
肉体的死より、社会的な死がキツイ(家族のことや、友達のこと、整理していない部屋を片付けるであろう家族の気持ち、不甲斐ない娘をもった家族の親戚への顔向け)
今も時々、車に乗っているときなどに「このまま反対車線に飛び出して、トラックにつっこめたらなぁ」と考えます。
ウツと死は隣り合わせなんですよね。
セロトニンを分泌させるだけではウツは治らないってのも頷けます。
私はバイトを始めて、自分のこれから生きる方向性のようなものが見つかって気分が明るくなりました。
社会不安障害のほうも、軽くなった気がします。
なんだかまとまらなくなってしまいましたが、記事に共感することが多かったですよ
なんだか褒め殺しみたいな内容ですなぁ。
なにか考える材料になったのであらば、頑張って慣れぬタイプの話を書いた甲斐ありです。
ぜんぜん頭脳は明晰ではないので、安心してください。
また、自分のコトで、もぉ精一杯、アップアップで、ウツ世界の光明を灯すほどに至れません。
とんこつラメ男殿も、ボチボチと適当に頑張ってください。
サメニコフ殿
>小学校の時から「自分の最期は自殺だ」・・・とか
>「どうしようもなくなったら自殺があるじゃないか!」と心の支え・・・とか
ネガティブ感、満載のコメントですなぁ。
サメニコフ殿はウツ業界では若手と思っていたら、小学校の時からというと、随分ベテランでらっしゃるのですな。
年齢的には若手であるものの、実質ベテランであるちゅうことは、将来、確実に我が国のウツ界をリードしていく指導的立場に立たれる可能性もありますなぁ。
まぁ、イロイロと周りをコマメにチェックすれば、楽しいコトもソコソコ転がってもいるので、バイトを始めたは良いコト。
私も 小学5年生の時から 父親を殺したい 自分も死にたいと毎日 毎晩泣きながら寝ていました 今考えると完全に心を病んでいたんだと思います。酒乱で生活費を入れない父 それを私に毎日口汚くグチるヒステリーの母 両親の 罵り合い 地獄でした。 その後の人生も波乱万丈で・・・何年間も 一日中 死ね!クソッ!死にたい!と 独り言を繰り返して 過ごしていました。
でも、今は 一昔前からすると社会的にも 精神の病に対する理解がされるようになり始めているし 良い時代になりましたよね
私の場合は もう完全にダメだ!死ぬ!というとき (早朝のラジオで牧師さんの話を聞いて)藁にもすがる想いで(信仰心など無いくせに)仕事上の知り合いが聖歌隊をしているという話を何年か前に聞いたことを思い出して連絡を取り、教会の場所を教えてもらいキリスト教会に行ってみました
そこで 私を見るなり 「あなたに必要なのは教会じゃ無くて 病院です 騙されたと思って すぐに 病院に行きなさい」と言われたのです。
あの一言で 私は救われて 今も 生きていられるのです。感謝!
くすりのおかげで なんとか やっとこすっとこ過ごせています
メイラックス デパス パキシル に感謝!
最近パソコンも出来るようになり ブログなどを拝見させて頂き コメントも出来て 誰かと繋がっているという幸せも感じられて うれしいです 感謝!しています。
もん吉さまの 大ファンですので これからも ブログ楽しみにしています。よろしくお願いしますね
まる殿の感情とリンクする部分があったとのこと、まさに「同病哀れむ」といったトコロだと思います。
cobooo殿よりのコメント返事にて書き込んだよぉに、『死への願望』を綴ったウツ系のブログさん達を閲覧させていただくにつれ、頷けるトコロも多い自分自身です。
しかし、同じ感情に支配されていても、表現を変えれば、また別の結論をも導きだせるのではと感じ、そのままの勢いで書き込んだ雑文です。
わけがわからない病気ではありますが、「病気なのだ」と自分自身が認識し→「治療する」という意識で、随分と気持ちの持ちようが違ってくると、自分に言い聞かせているのです。
そして、「病気を直す過程にある人」を取り巻く環境が、変わっていくことを願っています。
『死への願望』に囚われてしまっている悲しみを、少しでも減らすためには、その感情を抱かざるをえない、また感情から離れられない「辛く深い悲しみ」を知る者が、声を出していかねばなりません。
その評論を、精神医学者や心理学者や抗ウツ剤製造業者に任せているは、この「病気」にある者の怠慢でもあると思うのです。
自分自身、自身の周囲の環境を壊してしまいたいと願うことは、悲しく辛いことですが、まる殿もご自身を語っていただきました通り、己の小さな力では壊してしまう以外、脱却する手が見つからない現実があります。
その現実の中で悩み苦しむ者達がいるというコトは、社会に発信していかねばなりません。
ドラマや小説の中の設定程度としてしか知らぬ人達に。
多くの人に「病気」や「病気を招く環境」を知ってもらい、そこから抜け出そうとする者が進む各人各様の選択肢を社会が容認すること。
それが小さき者達への希望とならんと考えます。
さて、私も、まる殿とコメントが交わせて嬉しいです。
ファンなる凄いお世辞を頂戴いたしまして、それならば、まる殿は『うつモンテカルロ』ファン会員No.2です。
もっとも、以前にファンとのお言葉を残していただきました会員No.1君は、いまや行方不明となっとります。
どぉぞ、ご自由になっといてください。
読まされる記事とコメントに、鬱の星
コメントありがとう。
鬱の★は、あまりなりたい★とは言えない★です。
さて、ハンドルネームに自ら「ちゃん」付けとはヤリますな。
ボボちゃんとは、九州の一部の地域では、性行為や女性器を表す隠語であるよぉですが、やっぱりボボちゃんはソッチのお人なのかしら?
私が住まう地域辺りだと「オメちゃん」であり、全国区であらば「マンマンちゃん」という意味を指し示しておられるのでしょうか?
とにかく、マリンバ☆ボボちゃんというネーミングセンスに脱帽です。
カリスマは、貴方様の方ですよ。